実績エピソード「緊急地震速報システム」

緊急地震速報システムの設置を推進

政治とは人の命を守ること

1995年1月17日、阪神淡路大震災が発生。当時児童センターの指導員だった伊藤こういちは、この日、偶然にも神戸出身の後輩と一緒でした。後輩は実家と連絡を取ろうとしますが、電話さえつながりません。公衆電話を使って、やっとつながった兄から告げられたのは、実家のマンションが倒壊したという残酷な事実でした。後輩は地面を叩きつけて慟哭しました。そんな後輩の姿を見て、伊藤こういちは神戸にある実家まで一緒に行くことを決意しました。 

 2人は翌日の朝一番で伊丹空港に到着。現地では交通機関がマヒしていたため、後輩の実家まで、空港から走らなければなりませんでした。必死に走る中、伊藤こういちは生涯忘れ得ぬ凄惨な光景を目の当たりに――。倒壊した住宅、分断された道路、不気味に舞う粉塵。この世のものとは思えませんでした。気付けば延々6時間走っていました。途中瓦礫やガラスの破片で足は切れ、靴の中は血だらけになっていました。 

 やっとの思いで後輩のマンションに到着した時、2人の目に飛び込んできたのは、11階立てのマンションが粉々に倒壊している姿でした。後輩は、がれきの隙間から、「お父さん、お母さん、帰ってきたよ」と、溢れる涙を拭いながら、必死に呼び続けました。その最中、瓦礫の中に人の姿が見えました。後輩の両親ではありませんでしたが、必死になって周囲の人と一緒に救出しました。 

 「まだ他に生きている人がいるかもしれない!」。伊藤こういちがそんな希望を抱いたのに呼応するかのように、ちょうど自衛隊の車輌の隊列が街に入ってくるのが見えました。期待は更にふくらみましたが、なぜか救出作業を始める様子がありません。伊藤こういちは思わず隊列に「止まれ!」と叫びました。

 車輌から降りてきた隊長とおぼしき自衛官に「なぜ助けないんですか」と駆け寄りました。

「申し訳ございません。国からの命令がなければ、私たちは何もできないのです」。自衛官の目には涙が浮かんでいました。 

  伊藤こういちは、やり場のない憤りをぐっとこらえるしかありませんでした。

 結局後輩の両親は助かりませんでした。

 伊藤こういちは、その後も神戸の地に留まりましたが、被害の全容や、どこに救助を求めればいいのかなど、現地に居てもわからないことばかりでした。そして何より、都市部での大地震の恐ろしさと、日頃から十分な準備と対策が為されていないために、どれだけ被害が拡大するのかを痛感させられました。 

 この時の体験が、伊藤こういちの政治信念になりました。 

「政治とは人の命を守ること」 

「政治家の仕事とは人の命を守るために働くこと」 

 伊藤こういちは忘れません。 

 後輩の慟哭を、自衛官の涙を、あの日の憤りを――

教育現場から「緊急地震速報」導入を実現!

 それから10年後の2005年、伊藤こういちは都議会議員に初当選しました。「政治とは人の命を守ること」との信念で、様々な防災対策に取り組みました。その一つが「緊急地震速報システムの導入」でした。倒壊した実家の前で後輩が「5秒でも10秒でも前に、地震が来るぞって教えてやれれば」と嘆いていた現場の声に応えたかったのです。伊藤こういちは、同じ悲劇を繰り返さないため、行動を開始しました。

 様々な準備を経て迎えた、2007年2月の都議会。緊急地震速報の必要性を訴え、はじめて東京都教育長の見解をただしました。 

 「緊急地震速報は、子どもの命を守るため、まず、学校・教育現場に導入すべきです」「これにより、震災避難訓練は、従来の震災発生後の行動訓練に加え、数秒前からの心構え、的確な行動についての教育普及につながります!」 

 伊藤こういちの発言に対し、教育長は、「大きな揺れが到着する前に児童生徒が危険回避行動をとることで、被害の軽減ができる手段であります」と明言。事態は動き始めました。 

 訴えは実りました。緊急地震速報は、小中学校をはじめとして、同時に都立学校、都立病院、都営地下鉄などへと拡充し、防災ラジオの普及へとつながったのです。